その名前を聞いたとき、少しだけ胸がざわついた。
キシリア・ザビ──『機動戦士ガンダム』の歴史に刻まれた、あの鋭く、どこか悲しげな横顔。彼女が『ジークアクス』という新たな物語の中で、再び姿を現した。
本記事では、『ジークアクス』のキシリアがどんな存在として描かれているのか、旧作との対話の中で何を変え、何を守ったのか──その“語られたこと”と“語られなかったこと”のあいだを、静かに照らしてみたい。
ジークアクスにおけるキシリア・ザビ──再演された“断絶と威厳”
『機動戦士Gundam GQuuuuuuX(ジークアクス)』は、過去作へのリスペクトと再構築を両立させた意欲作だ。
中でも「キシリア・ザビ」という名がクレジットされた瞬間、古参ファンの心に走った戦慄は、単なる懐古ではなかった。
ジオンの“鉄仮面”が再び現れる──しかし彼女は、私たちが知るキシリアと同じ顔をしていない。
名塚佳織の声がもたらす、冷静さの奥にある柔らかさ
今回キシリアを演じるのは、名塚佳織。これまで数々の複雑な女性キャラを演じてきた名塚の声は、硬質でありながら、どこか哀しみの余韻をまとっている。
初代のキシリア(声:小山茉美)が放っていた緊張感とは異なり、ジークアクス版の彼女は、沈黙の中に感情の波を揺らすタイプだ。
セリフは少なく、目線と間で語る演技。その声の奥に、「戦うしかなかった者」の静かな悲鳴がある。
肩書きは同じ、でも空気が違う──突撃機動軍司令官という“位置”の再定義
設定上、彼女はジオン公国軍の少将にして、突撃機動軍司令官という地位を与えられている。
だが、ここで言う「少将」は、かつてのような苛烈な権力者ではない。むしろ、“瓦礫の上で立ち尽くす管理者”としての寂しさがにじむ。
本作のキシリアは、ただ命令を下すだけの軍人ではない。崩壊しかけた組織を「それでも動かさなければならない」と覚悟する人として描かれている。
初代との連続性──“過去のキシリア”はどう受け継がれているのか
新たなキシリアは、旧作を知らない視聴者には“はじめまして”であり、ファンにとっては“ただいま”でもある。
だが、それは過去のコピーではない。「似て非なる存在」──ここに本作の試みがある。
では、初代キシリアとの“橋”はどこに架けられているのか。
冷酷な知略家か、それとも理想を追った孤高者か
初代『機動戦士ガンダム』でのキシリアは、ギレン・ザビに銃口を向けたことで知られる。その瞬間に滲んだのは、家族への失望と、ジオンという理念への絶望だった。
ジークアクスの彼女にも、そうした断絶の気配がある。だが、より静かに、より個人的にそれが描かれる。
言葉ではなく、あえて“語られない”ことで、視聴者の想像力がその背景を埋める。
かつて“割れる仮面”だった彼女が、今見せる素顔
過去作のキシリアは、常に“隠す”人物だった。仮面をつけることで自らを守り、世界を睨む。
ジークアクス版は、その仮面が“もう割れている”状態で登場する。
つまり、彼女はすでに敗北を知っている。だが、そのうえで、それでも立っている。
この“立ち尽くす者”の姿にこそ、現代的なヒロイン像がある。
ジークアクスという世界が、なぜキシリアを必要としたのか
「なぜ、いまキシリアなのか?」──この問いは、単なる懐古主義では答えきれない。
ジークアクスという作品が立ち上げられた背景には、ガンダムという巨大神話の中で、何を語り直し、何を問い直すかというテーマがある。
そしてその語り直しの中で、キシリア・ザビという“語られきらなかった存在”が選ばれたことには、確かな意図があるように思える。
暴力の系譜に“彼女”を据えるという選択の意味
ガンダムシリーズは、常に暴力を巡る物語だった。
だがその中で、「女性が権力を持ち、戦争を動かす側に立つ」という視点は、実は意外と少ない。
キシリアは、例外的な存在として、暴力の中枢に立った女性だった。
彼女を現代に“再演”することで、本作はガンダムという作品が長年扱ってきたテーマ──「力と倫理」「組織と個」を、違う視点から捉えようとしている。
そしてそれは、女性キャラクターを「戦場のマスコット」ではなく、“意思を持って暴力と向き合う存在”として描く試みにもなっている。
再解釈ではなく、“共鳴”としての再登場
ジークアクスのキシリアは、決してリメイクではない。
彼女は“再解釈”されているのではなく、“共鳴”しているのだ。過去と現在が響き合うように。
時代が変わっても、変わらないものがある。それは、「どうしても譲れないことがある」という人間の根本であり、キシリアはその象徴でもある。
だからこそ、彼女の再登場は“ノスタルジー”ではなく、“呼応”として響く。
私たちがこの不安定な時代に「なぜか彼女に惹かれる」と感じるのは、それぞれの中に小さなキシリアがいるからかもしれない。
語られなかったことへの想像──佐原的考察
キシリア・ザビという存在を語るとき、私たちはつい「彼女は何を言ったか」「何をしたか」と、事実に焦点を当ててしまう。
けれど、ジークアクスの彼女を見つめていると、むしろ“語らなかったこと”“見せなかった感情”のほうが、強く焼き付いてくる。
それはまるで、誰にも打ち明けられなかった傷跡が、沈黙の中でちらりと顔を覗かせるような瞬間だ。
セリフより沈黙、動きより“間”が物語るもの
ジークアクス版のキシリアは、声を荒げない。
どこか遠くを見るような目をし、部下にも敵にも距離を保ち続けている。
けれど、画面に映る時間が短くても、その“間”がすべてを物語っているように感じられる。
感情を押し殺すことが習慣になってしまった人間特有の、ある種の儚さ。
私はそこに、“司令官”である以前の、一人の「生き延びることを選んだ女」の姿を見てしまう。
「女であること」と「司令官であること」の、せめぎ合いの行間
ガンダムシリーズにおいて、女性キャラが軍の中枢にいることは珍しくない。
だが彼女ほど、「女性であること」と「組織の顔であること」がぶつかり合っている人物はいないかもしれない。
彼女は女らしさを排除することで、その地位を勝ち取ったのか。
それとも、誰にも見せなかった“柔らかさ”を、ずっと胸の奥に隠していたのか。
その問いに、作品は明確な答えを出さない。
だからこそ、我々視聴者は考える余白を与えられる。
そしてその余白こそが、物語の「余韻」として心に残るのだ。
ジークアクス キシリア──“語り継がれる強さ”としてのまとめ
キシリア・ザビは、かつて“悪”として描かれたキャラクターだった。
独裁者の一角を担い、冷酷で、策略を巡らす者。
しかしジークアクスの世界において、彼女は再び登場し、その“冷酷”の中に別の色彩が差し込まれた。
それは強さというより、「壊れてもなお、立ち続ける姿」だった。
完全なヒーローでもなく、明確な悪でもない。
そのあいだに立つ誰か──そして、それこそが私たちにとってもっともリアルな「強さ」なのかもしれない。
今の時代において、「戦う女性」は決して珍しくない。
だが、その内側にある孤独、恐れ、そして消えない理想を、ここまで静かに、それでいて深く描いたキャラクターがどれだけいただろう。
ジークアクスのキシリアは、語り直されたのではなく、“受け継がれた”存在だ。
誰かの中に眠っていた“自分だけの強さ”を思い出させてくれるような存在。
私にとって彼女は、物語という名の鏡の中に、そっと立っている。
言葉にはしにくい、でも確かにそこにある痛みと誇りを、そのまま抱えて──。
そう、これはキシリアの再登場ではない。これは、強さという名の継承なのだ。
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